たぶん15歳くらいが契機だったと思う。気づいたら、僕はむかしほどゲームをしなくなっていた。単純に実務的な問題として、当時愛用していたゲームボーイ・アドバンスが壊れてしまったこともあるし(何度も分解してホコリと取り除いたりしたけど寄る年波には勝てなかった)、その後続々と出たプレイステーションなんとかシリーズにはどうしてだか興味が持てなかったのもあるんだけれど(僕はもっぱら任天堂64派だった)、意識しはじめたころには僕が握っているのはゲーム機じゃなくて楽器だった。
ご存じのかたも多いかと思いますが、僕は(まあ僕くらいの世代のひとはほとんどそうだろうけど)子どものころからコンピューターゲームが大好きで、そのことを自分の誇るべきアイデンティティのひとつとしていた。「れおくんなんだっけあのー、上から見下ろすクルクル回るむかしのファミコンの…」と聞かれれば即座に「あークルクルランドですね」と答えたし、「あのー、中村光一がドアドア作るときの参考にしていたと言われてるゲーム…ナムコの…」と問われれば(まあこれも相当マニアックな内容だけど)「あーディグダグですね。本質が似てますね」なんて答えたものである。
そういう知識面だけでなく、子どもの頃の僕は本当にゲームで遊ぶことを楽しんでいた。
いま思えば子どものころあんなにゲームがおもしろかったのは、自分が子どもであるという無力さを忘れることができたからかもしれない。ひとたびコントローラを握れば僕は幾多の苦難を乗り越えてピーチ姫を助けに行くこともできたし、宇宙船のコクピットに乗って迫りくる敵を縦横無尽に蹴散らすこともできた。それに比べ実際に現実世界の僕にできたことと言えば、小さな身体でラケットを振り回してテニスの練習をすることと、好きな絵を描くことくらいで(これだって言わば空想の世界に逃避している)、ようするにすべてが準備に過ぎなかったわけだ。そのジレンマから生まれる憂さを、僕はゲームで晴らしていたのかもしれない。
僕がゲームに熱中しなくなったのは、もはやそういう憂さ晴らしをする必要がなくなったからかもしれない。準備期間はとっくのむかしに終わり、いま僕は自分のしたいことを(その気があれば)なんでもいつでもできる環境にある。僕にとって大人になるというのはそういうことだったのだ。もちろんすべての夢や欲望が即座に叶うわけではないけれど(現在の僕は子どものころとはまた違った意味で無力だ)、少なくともそれに向かって現実的な一歩を踏み出すことができる。そうやって自分の人生を自分の意志で選ぶことができるというのは、とてもすばらしいことな気がする。間違った決断や後悔することなんかもあるけど、それもまた人生ゲームを盛り上げるファクターのひとつと思える。実際はそんなに達観できないけどね…、でもまあその思いが歌になったりもする。
だからいま、自分が大人になったことがとてもうれしい。毎朝眠たい目をこすりながら学校に行かなくてもいいし、ポケモンのシール烈伝だって箱ごと買える。好きな漫画を全巻集めることもできるし、ゲームセンターで一日じゅう遊ぶことだって、その気になればいくらでもできるぜ…っていう発言の数々が、なんだか子どもじみているね。おかしいな。僕が大人になったことをうれしがってるのは、中身がまだ子どもだからなのかな。思い当たる節は…、うーん、やばいな、けっこうあるぞ。
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