「心」という通奏低音で結ばれた登場人物
ソフィーは「理性」の象徴である。Sophyという名前がすでに、“philosophy”などにもあるように「知識」や「知恵」というギリシア語“Sophia”から派生した言葉である。
ソフィーは理性的であるがゆえに、常識や前提にとらわれている。序盤に出てくるレティーとの会話などにそれは見受けることができる。
レティー「ねえお姉ちゃん、ホントに一生あのお店にいるつもりなの?」
ソフィー「お父さんが大事にしていたお店だし、…あたし長女だから」
一方でハウルは、ソフィーが表現できないでいるところの「本心」の部分を司っている。ソフィー同様、英単語の“howl”は「大笑いする」「泣きわめく」などの感情的な本能で示す動詞である。物語が進むにつれ、つかみどころのないハウルに無邪気さや素直さが出てきていることとは決して無関係ではあるまい。
もっとも序盤に出てくるハウルは前述したとおり客観的である。戦いや逃避などの外からの力により抑圧された本来の意思であることは、ストーリーを見てもわかりやすい。
さらに他方、カルシファーは「感情」を表している。ルシファー(lucifer)は悪魔を表す単語であるが、語頭に「カ」がついているのは意味深長である。しかし、カルシファーはハウルの城のエネルギー源となっている動力であることから、カロリー(calorie, cal)とルシファーを合わせた造語であるとはなんとなく推察できる。
また、ハウルの心臓を狙う「荒地の魔女」は「欲深さ、強欲」を担っている。自らの容姿を気にして魔法で若さを保とうとする姿は見ていてもわかりやすい。「荒地」というのも、本来的には大地から資源や栄養を搾取した結果としてできる土地のことを示している。ソフィーたち同様に、名前からもその意味性を汲み取るべきなのは自明だろう。
こうしてみると、全員が心の構成する一部である。意識や内面の表す機能のひとつを象徴しており、名前の面からもそれは、偶然で片付けるには出来すぎている。
そしてそれらを制御する外圧となっているのはサリマンだ。支配欲、他者を制御する存在として、「心」である彼らを抑圧している。また、荒地の魔女ほどではないが自分への見返りを気にする欲があり、それはソフィーのハウルにたいする愛情とはまったく異なる「条件愛」であると言える。
ソフィーやハウルに通奏する主題の行く先
自分のことは自分で決めなきゃダメよ!
ソフィーに向けられたこの言葉はレティーによるものだ。表すとおり、ソフィーは自分の意志で決めることをしない。しかし、ハウルと出会うことで愛情を自覚し、その過程で本心を表現したり、極めて自然な感情表現を憶えていく。冒頭でレティーが放った言葉は主人公の大きなテーマである。
もちろん、ソフィーは一度ハウルを見捨てて出て行こうとした。しかし、結局のところ気づいてしまったハウルへの強い気持ちに従って、これまであった理性による制御を打ち破るのだ。「ハウルを愛する」ことを、ほかならぬソフィーが決断したのだ。
ハウルはといえば、彼はこれまで徹頭徹尾、逃げるために戦ってきた。サリマンによる他者からの支配、荒地の魔女による欲望からの制圧、こういった抑圧から逃れるために、カルシファーと契約し、心を失ったのだ。
そんなハウルだが、物語中盤から感情が豊かになることは驚きだったろう。髪の毛の色が変わったことによる動揺はこれまでのハウルからは想像し難い混乱だった。しかしこれも、動く城のなかにソフィーが加わったことによるものだ。本心(ハウル)と感情(カルシファー)は、理性(ソフィー)によって綺麗な三角図を構成したのだ。
そのハウルも、ソフィーへの愛に気づいたときには、「逃げるために戦う」ことをやめ、「ソフィーを守るために戦う」ことを決めるのだ。ハウルの「己が本心と、支配や制圧との葛藤」という名の戦いの終結は、「自分のため」というハウル自身の自己愛、あるいはハウルに向けられたサリマンの条件愛に、「ソフィーのため」という無償の隣人愛が勝利を収めたことによるものだ。
この、理性を象徴するソフィーと、本心を司るハウルが、無償の隣人愛のもとに本心のために行動することが非常に大切であり、それが本心を取り戻す(心を統一する)手段だったのだ。動く城の引っ越しも、「サリマンに見つかってしまう」とハウルは自弁した。しかし、表面的な理由はそうであっても、深層的には違うはずだ。扉がつなぐ四ヶ所の行き先のなかから、ハウルが「ジェンキンス」として暮らす首都と、「ペンドラゴン」として暮らす町を、それぞれ手放すということなのだから。それはつまり、ハウル自身による、ハウルがハウルとして生きていく宣言だった。
ソフィーとハウルが、それぞれの課題を受け止め、克服し、その結果として心が本来の状態を取り戻す。これは、『ハウルの動く城』に通奏される頑丈な主題であるはずだ。それなら、ソフィーの髪を食べたカルシファーが強大な力を発揮したのも、「理性と感情の協力」という方向性の一致によるものであると考えられる。
結び -「ハウルの動く城」が表すものとは-
「動く城」とはなんだろう。
前述したように、各キャラクターたちはそれぞれ心を形成する一部を意味している。そして心とは、各意識の集合知であり、格納庫のようなものである。
つまり、「ハウルの動く城」そのものが、作品の大きな主題となっている「心」を代表していたのだ。
理性を象徴するソフィー、本心を表すハウル、感情であるところのカルシファー、欲望を代弁する荒地の魔女。物語を経て、それぞれの視線がおなじところを向き、そして心である「動く城」は、四人でひとつの円になって転がる。
「動く城」は、ソフィーが出会ったころはまだ、ハウルが逃げるために地を這って歩くいびつな造形物だった。外観はアンバランスで、室内は散らかっており不精な生活が目立つ。それが、ソフィーの理性による掃除や、ハウルの引っ越しによる見直しが施され、終盤には一時的に解体する。一度リセットされたハウルの動く城は、そしてラストシーンで再構築され、緑の豊かな美しい設計へと変貌を遂げ、自由を目指して飛び立っていく。
ソフィーの名乗った「掃除婦」は、ただの建前ではなく、心の整理をする役割という極めて重大なメタファーでもあったわけだ。
整頓されていなかった、歪で崩れかけた心は、ソフィーとハウルによる無償の隣人愛により、ひとつの方向を向いている。また、心そのものも美しく変化したことが、城の形状の変化に表れている。この映画なりのハッピーエンドの表現である。
ここまで難解で、曖昧に表現したのは、それでもテーマが「心」だからだろう。心や意識や深層心理というものは、明確にこれと指し示すことはできず、いくつもの構造のもと複雑偏奇なシステムによって機能している。一人々々が違うのは当然だし、また一方で、違うから「個人」なのである。
逆にいえば、例えば「戦争」あるいは「恋愛」などといったものを主題に据えるのであれば、このような複雑な回路は不要であり、もっとシンプルな物語になっていただろう。
自分の現状や、自分を取り巻く現実は、まぎれない自分の心がつくりだしたものである。同時に、その心とは、一片たりとも欠けていれば成立しない。それは物語と同様である。それが自分であり、そうして生活することが本物の自分を生きるということであるのだから。