俊介はずっと、投手としては「なにもない」選手であった。中学時代にアンダースローに転向したものの、ストレートの球速も遅く、野球選手として特別優れたものを持っているわけでもなかった。
平々凡々とした野球選手であった俊介は、進学した國學院大學でも在学中に一部に昇格することはできなかった。しかし、別の選手の取材で大学を訪れた應武篤良の目に留まり、当時應武が監督を務めた社会人野球チーム・新日鐵君津へと入団することとなる。とはいえ、應武は当時の俊介について「たまたま好調だった登板を見かけた」にすぎないとしており、実際、当時の俊介は制球が悪く、左打者の背中を抜けていく投球もままあったという。
投げてもストレートが130km/h前後しか出なかったため、失笑を買うことも多かった俊介だが、應武は俊介のリリースの癖を指摘し、グリップの握りなどを改善することで、制球難を克服した。應武は新日鐵君津の黄金期を築いた第一人者である。野球ファンのなかには、のちに彼が早稲田大学の監督として斎藤佑樹、大石達也、福井優也などを指導し、2010年「三羽ガラス」としてそれぞれ日本ハム、埼玉西武、広島にドラフト1位指名を受けたことは有名だろう。
しかし、その10年まえ、折しも鉄鋼不況の最中にあって社会人チームが次々と解体されるなか、新日鐵君津もおなじ瀬に追い込まれる。都市対抗野球の予選を突破できなければチームが解体されるという危機にあったのだ。
都市対抗に出場できなければ、意味がない。社会人チームである以上、宣伝のために広告効果としてやっているのだから、全国区に名前が出る必要がある。会社の親睦のため、東京ドームに行って、家族とともに応援する、そういうイベントなのだ。
應武監督のもと、その背水の陣に挑むことになる新日鐵君津だが、当時の俊介はエース恩田寿之に次ぐ二番手ピッチャーであった。かといって、恩田が毎試合投げるわけにもいかないので、当然俊介も先発することになることとなるのだが、負けたら終わりとなる都市対抗予選の最終戦で、俊介が無死満塁のピンチを招き、恩田にスイッチする場面があった。恩田はそうやって俊介の尻拭いをすべく高校球児のようにほぼ全試合で投げる事態となり、結果として肩や肘の故障から手術に追い込まれてしまう。チームとしては本大会出場の切符を手にし、都市対抗本戦で俊介は恩田のいないチームで先発投手の柱として登板。三菱重工広島、トヨタ自動車、西濃運輸を破り4強入りを決める。俊介は大会優秀選手賞を獲得し、直後、シドニー五輪のプロアマ混成チーム日本代表に選出され、対イタリア戦では中継ぎで登板し勝利投手にもなった。
それが目に留まってプロ入りし、千葉ロッテに入団した俊介だが、数々の活躍の背景には先輩である恩田寿之の存在がずっとあっただろう。もとはといえば自分のしわ寄せを恩田に片付けてもらい、そのせいで恩田は故障を招き、影にあった自分が幸運にもプロに行けた。俊介のなかには、プロを引退するそのときまで恩田の影が色濃く残っていたに違いない。
2013年、そして俊介は千葉ロッテを退団し、プロとしての人生を終えることになる。
しかし、野球はやめなかった。アメリカ独立リーグやベネズエラのウィンターリーグなどを渡り歩き、野球を研鑽し続けた。台湾や韓国からオファーも来たが、メジャーリーグからはなかなか声がかからない。ベネズエラのチームメイトたちは、家族のもとで、自分の地元で幸せに野球をプレーしている。一方の自分は単身赴任して野球を追いかけてきた。俊介はそこで、家族の身近でプレーすることをやり残していたことに気づいたのだ。新日鐵君津時代からロッテを退団するまでプレーした地元の千葉、そこに戻ろう。すべてのオファーを蹴って、俊介は日本に帰ってきた。
新日鉄住金かずさマジック。16年まえ、恩田や應武監督とともに一命をとりとめた新日鐵君津は、監督の移動もあってそれから解体に追い込まれ、現在はこの名前で活動している。
俊介は、自分が若かったとき、都市対抗に進む際に、なにもできないのに恩田に助けてもらってばかりだった。最後に、もう一度都市対抗に出よう。家族のもとで野球をしよう。コーチ兼任選手として出場した本戦出場をかけた最終戦、同点の8回から俊介はマウンドにあがり、7イニング無失点。延長15回の末チームは勝利し、都市対抗に進んだ。
俊介は、恩田とおなじことをしたのだ。
2016年、やり残したことをすべてやった俊介は、マウンドを降りた。現在はかずさマジックのコーチとして、最後まで身近なところで野球をしている。
自分がプロに行ってることがむしろおかしな話だと、俊介はずっと思っていた。そのプロも引退し、アメリカ、ベネズエラでの野球行脚の末に気づいた「身近で、家族のもとで、野球をやる」という最後の心残りを、恩田とおなじことをすることで、俊介は野球選手としてもっとも幸せなかたちで拭うことができた。
日本のプロ野球選手の最後は、ハッピーなものが少ない。もちろん、NPBに残って指導者になる者もいるが、ほんのひと握りだ。引退後べつのビジネスで成功したという例もあるが、ファンとしては「あれ? 野球は?」という気持ちが正直なところ。選手としての頂点があって、そこから下降していくというイメージがある。
渡辺俊介ほど、引退後も最後まで格好いい人物像を貫いた選手はいなかっただろう。しかし、ドラフトで騒がれる一部の野球エリートを除き、プロ野球選手というものは、俊介のような偶然の幸運を手にして生き残ってきたラッキーボーイが多い。今年も開幕したプロ野球を観ながら、俊介を観るような目で選手たちを観ている、そんな自分がいるんだ。
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