そんな2014年、いまから10年まえ。岡野大嗣の歌集『サイレンと犀』を読んでしまった。
もしかしたら僕は、3万首書くよりまえに力尽きるかもしれないと思った。それくらい打ちのめされたし、けっこう絶望的な気持ちになった。才能のある者が使う言葉は、推敲を重ねたうえで、稠密に練られて編まれている。それでも、他人に届くときには、まるでメモでもとるかのようにサラサラと簡単に書かれたように見える。岡野大嗣の短歌は、凡庸なりに積み重ねたものでなにか見れる光景があったらいいなと楽観的に考えていた当時の僕の意欲をぶっ壊すには充分だった。
いまもまぁ、短歌の上手なひとを見たときに、当時のショックには及ぶべくもないにせよそれに至らんとする気分になることはある。近年はSNSも短歌の流行もあって、簡単に才能に出会えてしまう。そんな折、鯨庭著『言葉の獣』を読んでたら、自分が短詩系文学に傾倒したときに臆さず持っていた大事な気持ちが書いてあった。
何気なく呟いた言葉が偶然一篤の詩になることは美しいけど
美しいものの輪郭を見たくて詩を書くことだって慈しむべきなんだ
忘れてた。才能や手先を直視すると消えてしまうすごく大事な感情だと思い直した。僕は、岡野大嗣になれないし、岡野大嗣のような短歌も書けないけれど、岡野大嗣とおなじ美しさには、届くかもしれんと、正直に息を呑んだ。あたまを打たれたというか、頬をぶたれたような感覚だった。
言葉に込められた真意や本心とか、言葉としての表面上の形式や額面とかももちろん大切にするべきで、向き合って目をあわせていかなければならない重要な要素だ。ただそれより、言葉そのものの編まれかたや語調や語尾のかたち、そのひと固有の語彙に僕は興味があって、だからあのとき大学に文芸という選択をした。あのときの、なににでも立ち向かって言葉で対峙する気持ちのなかで、見失っていた。考えて考えて、そのひとの美意識で吐き出された言葉には、きちんとそのひとの個が宿っている。それに届きたくて、片手でもいいからさわりたくて、僕は短詩系文学の只中にいた。
僕にはそれが獣のすがたには見えん。だから東雲みたいなスケッチもできん。でも、それゆえに言葉という実体を持たない、曖昧に浮遊するものを脳髄でとらえて感知しようとするのだろう。一巻冒頭の山月記にたいする薬研の気持ちが苦しい。僕もそうだった。
大人になったら、先生の言うこともわからんでもない、っていうかむしろ現実的だとさえ思う。詩の授業、言葉による芸術の美しさは、受験勉強で問われることはほとんどない。正解もないし、正解しかないからだ。実体はないけど、その実ありとあらゆる角度から様々な意味性を与えられて、言葉というものは全方位から見えない串で刺されたように浮かんでいる。
薬研と東雲が言葉を捉えようとするときに、観察力と瞬発力がある。あとみずみずしさと青春もある。「重箱の隅をつつくような言葉じり」は原則として見捨ててもいい、ただ口がすべったとか筆の勢いとかで看過されがちだ。二人はそれさえ汲もうとする。大人になってから損をするタイプだと思う。
でもそれを考えることの意義深さや、そこに理屈を見出したときの興奮が代用の効かんものだとも、痛いほどわかる。まぁ、自分がそれで痛い目を見たからこそ、“痛いほど”なのは事実やけど、損とか不利益を被っても言葉に誠実なひとを、やっぱり愛しいと思ってしまう。
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