我々が短歌に触れるときの、多くは歌集という形態をとっている。一冊あたり、だいたい300首から350首ほどの短歌が収録されているが、短歌というものは原則的に、「一冊」ではなく「一首」が最小単位だ。もちろん、上句や下句、単語の単位で引用することも可能だが、現実的に歌人は魂の全霊を込めて一首をつくり、それを連作にしたり、歌集にしたりしている。
だから、実は短歌は、本という形態とものすごく相性が悪い。短歌を発表するために、300首以上の作品をつくり、流通させ、読者に届けるというのは、一首あたりのコストパフォーマンスは高いかもしれないが、「それができる(技術や実力や影響力のある)ひと」に限られてしまう。短歌を書くひとはこんなにもたくさんいるのに、馬鹿々々しい話だと思わないか?
作家というのは本を出すものだからとか、本になる前提で短歌を書けば良いとか、そういった話ではない。むしろ本末転倒である。
「短歌は、一首読んでもらえればいい」というのが、僕の一貫した考えだ。その一首を届けるのに、あと299首も書かなければ短歌としての最小単位にも満たないはずがない。これは、短歌の単位が一首であることの概ねの論拠でもある。
小説や漫画と違い、短歌はジャケ買いもできない。できるジャケ買いは結局書店に売っている、流通として「それができるひと」の歌集だけで、ましてやそれらでさえ手にとって装丁が好みだとか題名が好みだとかで買ってみたところで、「思ってた内容と違った」と落胆するくらいなら、短歌はもっと小さな単位で存在するべきだと思う。
同時に僕は、短歌に余計な文脈を付与する形態にもあまり肯定的な考えを持っていない。これに関しては、単位が一首だろうが一冊だろうが同様である。
連作、あるいは一冊(300首)を通さないと届けられない物語やメッセージがある場合を除き、やはり歌人は「一首」という単位で作歌している。
そうやって心血注いだ一首々々の短歌は、「この歌集に入っているから」とか「この連作の一部だから」とか、「この歌の次だから」とか「歌集の最後の歌だから」とかいう、さまざま角度から文意や文脈を与えられており、それはその形態をとる以上どうしようもない。
しかし前述したように、「歌集」や「連作」というのはもはや「その形態にするべき理由」があって立場取るものであり、基本的に短歌に必要なものではないのだ。
こういう余計な荷物は「一冊」に限った話ではない。「一首」という単位で見ても、短歌に意図的に写真やイラストを添えたり、上句と下句のあいだ、あるいは作者にとって意味上の都合がいい文節をもって改行を施したり、短歌に余計な文脈を課している例はいくつもある。
それらの多くは、必要だから与えられたというよりも、作者が三十一文字に込めた作意を、より齟齬なく、より誤解なく、届けようとした結果である(とりわけSNSなどで好んで発表する短歌はこういったものが多い)。
この短歌は海の歌だから海の写真を添えるとか、ここで意味が切れるから改行をするとか、インスタグラムの投稿には収まりが悪いから上句と下句の二段構えで投稿するとか、そういった「作者の都合」に合わせて、短歌はさまざまな意味とともにみるみる窮屈になっていく。その海は読者の想像する海なのか? その改行は自由な読解を認可しているか? 問われれば、「べつに」というようなものばかり目にする。
海の写真を添えた時点で、「この歌の意味する海はこのような海です」という語意が発生する。改行をすれば、「ここに文意の境目があります」という行間が生まれてしまう。それらは、短歌の読者が想像する吹き出しを小さくしてしまうのではないか? なくたって短歌として自立しているのではないか?
作意を補足するような二次的な要素や、改行そのものを悪しとするわけではない。必要がないのに、そういった作者の都合による余剰の手並を施す姿勢にたいして、どうしても是認できないということだ。
僕が短歌を任意のサイズに収めるとき、文節のあいだだろうが助詞の途中だろうが、無作為に改行するのはそのためだ。歌集はほとんどが文庫にはならない。一行で滞りなく書くのが美しいという要らん様式美があるのか業界の決まりごとなのかなんなのか知らんが、百人一首はかるたに収まってるのに短歌は一行で書きなおかつ読めるサイズでしか出さないというのは、保守的だとも思うし弱視や老眼にも優しくないと思う。
一首だろうと、一冊だろうと、短歌はさまざまな形態に応じて簡単に印象を操舵できる。紙を墨に浸すように容易に染まってしまう。
だから、短歌を書く立場のひとでさえ、無意識に不要な語脈で作歌してしまう。これは、本当にもったいないことだと思う。
「どうせ歌集になんてならないから」
作意を補足するような二次的な要素や、改行そのものを悪しとするわけではない。必要がないのに、そういった作者の都合による余剰の手並を施す姿勢にたいして、どうしても是認できないということだ。
僕が短歌を任意のサイズに収めるとき、文節のあいだだろうが助詞の途中だろうが、無作為に改行するのはそのためだ。歌集はほとんどが文庫にはならない。一行で滞りなく書くのが美しいという要らん様式美があるのか業界の決まりごとなのかなんなのか知らんが、百人一首はかるたに収まってるのに短歌は一行で書きなおかつ読めるサイズでしか出さないというのは、保守的だとも思うし弱視や老眼にも優しくないと思う。
一首だろうと、一冊だろうと、短歌はさまざまな形態に応じて簡単に印象を操舵できる。紙を墨に浸すように容易に染まってしまう。
だから、短歌を書く立場のひとでさえ、無意識に不要な語脈で作歌してしまう。これは、本当にもったいないことだと思う。
「どうせ歌集になんてならないから」
「一首書いてみただけだから」
そうだ、だからこそあなたの短歌は、あなたを離れたところで誰かのくす玉を割るために、限りなく無重力で、自由なまま存在するべきだ。一首あれば、たったそれだけあれば、短歌は短歌であり、だれかの生活を支えたり、胸を打ったり、心を掴むことができるのだ。短歌に貴賎はない。「三十一文字の口ずさめる御守り」に、職業作家であることは問われない。
写真なんぞなくていい。改行なんざ施さなくていい。あなたの短歌は、メモ帳に鉛筆で書くだけで、そこに短歌としての必然的な整合性がある。それをいちばん、短歌として説得力のあるかたちにして手放せばいい。それが一首の短歌として、一輪の花を買うように誰かに届いてくれる可能性を持っている。歌集なんていう花束にしなくても、だ。
葉書に書いてもいいし、鉛筆に刻んでもいいし、友達のノートの最後のページに駄々書いたものでもいい。バナナの皮に彫ってもいいし、パンツに刺繍してもいい。でっかい垂れ幕に書いて学校の屋上から放り投げたっていい。短歌に形式なんてないのだ。あなたの短歌の筆路を、あなたが狭めたり、短くしたりする必要は、本当にこれっぽっちも存在しない。
一首々々の展望をできるだけ長くもって書いて、万が一、歌集になるときがきたらその300首を五十音順にでも並べて世に放ってやればいいのだ。短歌が短歌であるために、無作為に様式を外れることを、どうか恐れないでくれ。
短歌をもっと自由にしてほしい。それがおそらくあなたの短歌を、もっと魅力的に届けるものだと信じて。
写真なんぞなくていい。改行なんざ施さなくていい。あなたの短歌は、メモ帳に鉛筆で書くだけで、そこに短歌としての必然的な整合性がある。それをいちばん、短歌として説得力のあるかたちにして手放せばいい。それが一首の短歌として、一輪の花を買うように誰かに届いてくれる可能性を持っている。歌集なんていう花束にしなくても、だ。
葉書に書いてもいいし、鉛筆に刻んでもいいし、友達のノートの最後のページに駄々書いたものでもいい。バナナの皮に彫ってもいいし、パンツに刺繍してもいい。でっかい垂れ幕に書いて学校の屋上から放り投げたっていい。短歌に形式なんてないのだ。あなたの短歌の筆路を、あなたが狭めたり、短くしたりする必要は、本当にこれっぽっちも存在しない。
一首々々の展望をできるだけ長くもって書いて、万が一、歌集になるときがきたらその300首を五十音順にでも並べて世に放ってやればいいのだ。短歌が短歌であるために、無作為に様式を外れることを、どうか恐れないでくれ。
短歌をもっと自由にしてほしい。それがおそらくあなたの短歌を、もっと魅力的に届けるものだと信じて。
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