ジャイアンは本当に映画だといいやつなのか?
ジャイアンについて多くのひとが持っている印象のひとつに、「映画だといいやつになる」という論調がある。実に薄っぺらい、淡白希薄な安っぽい感想である。ジャイアンという人間の上澄みを掬っただけで『ドラえもん』という作品のなにかを感じ取った気分に浸っているおめでたいお前の脳みそを雲かためガスでカチカチにして差し上げるので覚悟しておき。
ジャイアンは映画だといいやつになると思っている全員に問いかけたい。ジャイアンは日ごろからいいやつじゃないか。
もちろん、暴力や暴論を手放しに肯定するわけではない。しかしだからと言ってジャイアンの、血の気が多く喧嘩っ早い短気な性格は「悪」であるのか、と問われれば、「まぁそんな子もいるよね」といったところではないだろうか。相手は子どもだぞ。SNSであたりかまわず噛みついている論客気取りのリプライのほうが、よっぽど大人気ないんじゃなかろうかと僕は思う。
ジャイアンのアイデンティティの本質は、昔ながらの昭和のガキ大将である。体が大きく、声もデカい(どちらの意味でも)。そんなジャイアンはガキ大将として、常に自分の拳の強さや権力を周囲に示す必要がある。俺様はこんなに強いんだぞと、周知させる手段として彼は暴力を振るっている。
そして、重要な事実として、映画ドラえもんの舞台は「異世界」である。
のび太たちの町に異世界人がやってきて、異世界人と仲良くなって、異世界人の世界に行って冒険をする。この、映画ドラえもんの鉄のプロットにおいて、ジャイアンは自分のテリトリーから離れたところで、のび太たちとともに敵と対峙してきた。
一歩外へ出たら、強い人間は弱い人間を守る。ジャイアンが「映画だといいやつ」に見えるのは、彼が異世界で、日ごろ振るっている暴力でもって、心の友を守り抜くからだ。
隣り町に出かけたのび太が、その町のガキ大将に絡まれてピンチに陥ったとき、「助太刀するぜ」とジャイアンはのび太に加勢している。
ジャイアンは武将と同じである。領土内では力を示し、合戦に出れば果敢に戦う。この心意気を、「映画だといいやつ」など気の利かないひとことで片づけるなんて行為は、ジャイアンに対する甚だしい誤解に基づいた蛮行である。
お前のものは本当に俺のものなのか?
ジャイアンの人間性を端的に表す名言のひとつとして「お前のものは俺のもの」がある。
一見すると「お前のラジコンもマンガも全部俺のものであり、お前の所有物は俺に差し出せ」という文意に見えるし、事実として、連載当初はそういった文脈上の出来事として使われた言葉だ。
先述した「自分の力を示す」行為の一環だと僕は捉えているが、これを「私欲を満たす」行為に終始しているとみなす声もある。僕個人は、べつにそうだとしてもいいだろという立場だが、「私欲を満たすために他人のものを取り上げるなんて許せない」という脳みそをフワフワ銃で撃ち抜かれた宙ぶらりんな皆様をいま楽にして差し上げるので覚悟しておき。
まず、すでに述べたように僕は「昭和のガキ大将が理不尽な暴力を振るおうがかまわんだろ」という立場である。しかし、藤子プロの制作するアニメーション内において、「お前のものは俺のもの」という台詞は、のび太の落としものをジャイアンが一緒に探す口実として使われたストーリーが組まれている。
つまり「お前のマンガも俺のものだが、お前の落としものも俺のものだ、手伝うぜ」ということだ。
これについて、『ドラえもん』という作品が藤子・F・不二雄の手元を離れて後年に加筆されている事実に対して、「当初の設定を変えるなんておこがましい」という意見を見たことがある。
僕はそうは思わない。
ドラえもんは未来だ。その物語は時代観や価値観をアップデートしたうえで成り立つ未来だ。
F先生はたしかに驚異的な想像力で未来を空想しドラえもんを描いた。しかしF先生は未来から来たわけでもなければ、神様でも仏様でもない。F先生が描ききれなかった未来を僕らがつくり、ドラえもんという定規におさめていくことの、一体なにがおこがましいのか。いちファンでしかない者が勝手な物言いでF先生の50年前の作品設定を永久に定め保存しようとすることこそ、おこがましい発想の極みではなかろうか。
お前のラジコンもマンガもジャイアンのものである。そして、お前の夢も同時にジャイアンのものだ。だから彼は今日も走る。心の友と、おなじ喜びを共有するために。
ジャイアンは本当に音痴なのか?
ここまで言っても、「ジャイアンは音痴でひとに迷惑をかける」などと食い下がる輩もいるだろう。そんな往生際の悪い馬鹿野郎にはまもなくほんやくコンニャクを差し上げるので、いい加減ジャイアンを誤訳して解釈するのをやめてほしい。“ジャイアンの奥地へどんぶら粉”。彼は音痴でもなんでもない。
『おれはジャイアンさまだ!』という歌がある。ジャイアンが作詞作曲し歌唱する、正真正銘の彼のオリジナルソングだ。聞き覚えのないかたがほとんどだろうが、「俺はジャイアン、ガキ大将〜♪」と聞けば少しはピンとくるだろうか。
おれはジャイアン ガキ大将
天下無敵の男だぜ
のび太 スネ夫は 目じゃないよ
ケンカ スポーツ どんとこい
歌もうまいぜ まかしとけ
あの歌は本来こう続き、3番まで存在する。そこまでは知らなくとも、冒頭のフレーズはみんなが聞いたことのある馴染みの歌ではないだろうか。
歌の優劣には、三つの基本をおさえているかが重要だ。
実はジャイアンはこのうち二つをクリアしている。ジャイアンはこの歌を①正しいリズム と②正確な音程 でうたっている。『ドラえもん』を見たほとんとのひとがこの歌を覚えているという事実は、その証拠である。
ジャイアンは③適切な音量 を知らないため、たしかにリサイタルをすればみんなが耳を押さえてしまう。
しかし、これを迷惑と呼ぶほどのことだろうか。お前には、身近な友達が自作の歌を下手なりに伝えてくれた思い出が、はたしてあるだろうか。子どもにとって、ものづくりや音楽に生でふれる機会が、一体どれほど尊いことかわかるだろうか。
コエカタマリンという道具がある。声を吹き込めば声量に応じて文字として出現し飛んでいく、拡声器のような道具だ。映画ドラえもんにおいて、ジャイアンの歌声がデスボイスとして敵をやっつける場面を僕らは何度も見てきた。それでもまだ「音痴で迷惑をかける」などとのたまうのか。お前の歌声はいったいどんな敵をやっつけるというのか。
結び
ジャイアンはいいやつである。
ジャイアンは心の優しいガキ大将だ。
ジャイアンは音痴ではない。
ジャイアンは、自らが悪名という風評をかぶることで過小評価された昭和のガキ大将である。しかしその実、彼はきっと大人になっても、周囲を助けたり、盛り上げてくれるのだろう。離れた地で生きる心の友を思い返しては「いまでもあいつらは、俺のことをジャイアンと呼んでくれるだろうか」と、きっと考えている。そういうやつなのだ。「ジャイアン!」と僕らが呼べば「おいおいそのあだ名、まだ現役かよ」と照れる。そついうやつなのだ。
このエントリーを最後まで読んでくれたあなたのジャイアニズムが、少しでもひっくり返ることを願っている。心優しい永遠のガキ大将に、ただしい光が当たってほしい。では。
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